お手玉の歌と日露戦争、保育で伝える歴史的背景

お手玉の歌と日露戦争の歴史を保育で正しく伝える方法

この歌を意味も知らずに歌い続けると、子どもの歴史観がゆがむリスクがあります。

この記事のポイント3つ
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歌詞の意味と歴史背景

「一列談判」とは1904年1月の日露交渉決裂を指す。歌は1〜10の数え歌の形をとり、実在の将軍名まで登場する明治の記録文化だった。

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地域ごとに違う歌詞バリエーション

隠岐・鳥取・東京など各地で歌詞が異なり、30番以上まで続く長大版も存在する。伝承独特の変化が各地に残っている。

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保育での活かし方と注意点

お手玉遊び自体は脳・手指の発達に効果的。戦争色の強い歌詞は年齢と場面に応じて使い分けを判断する視点が保育士には求められる。


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お手玉の歌「日露戦争」とはどんな数え歌か

「一列談判破裂して、日露戦争始まった」という書き出しで始まるこの歌は、明治37〜38年(1904〜1905年)に起きた日露戦争をモチーフにした手まり歌・お手玉歌です。イチ、ニ、サン、シ…と各句の頭に1〜10の数字を読み込んだ「数え歌」の形をとっており、子どもでも自然に数を覚えられる構成になっています。これが保育の現場にも受け入れられ、昭和30年代頃まで全国各地の子どもたちに広く歌い継がれました。

歌詞の全体像は以下の通りです。

番号 歌詞(代表例)
一列談判破裂して
日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシヤの兵
死んでも尽くすは日本の兵
五万の兵を引き連れて
六人残して皆殺し
七月十日の戦いに
ハルピンまでも攻め破り
クロパトキンの首を取り
東郷元帥万々歳

注目したいのは、この歌が単なる「子どもの遊び歌」にとどまらず、実際の歴史的事件と実在の人物名を盛り込んでいる点です。「クロパトキン」とはロシアの陸軍大将アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン(1848〜1925年)のことで、日露戦争では満州軍総司令官を務めた人物。「東郷元帥」は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎海軍元帥のことです。歌詞中の「クロパトキンの首を取り」という表現はかなり激しいですが、実際には処刑されたわけではなく、奉天会戦後に解任されたことを誇張して表現したものです。

この歌は「手まり歌」として分類されることが多いですが、お手玉遊びの際にも歌われていました。つまり「お手玉の歌」と「手まり歌」は厳密には別カテゴリでありながら、実際には同じ歌が両方の場面で使われていたのです。

一列談判破裂して・手まり歌(隠岐郡隠岐の島町倉見)|出雲かんべの里 民話の部屋(歌詞と詳細解説あり)

お手玉の歌「日露戦争」に登場する歴史人物の解説

歌詞を子どもたちに歌わせる前に、保育士として押さえておきたい人物・地名の背景を整理しておきましょう。これが基本です。

まず「一列談判」という言葉の由来については、諸説があります。最も有力なのは「一月談判」、つまり日露開戦直前の1904年1月に最後の外交交渉が決裂したことを指すという説です。「いちげつ」が口伝えで「いちれつ」へ変化したとも、「日列(日本対列強)」の転訛だとも、交渉のテーブルが一列に並んでいたからという説もあり、現在も定説はありません。意外ですね。

「大山大将」が歌のバージョンによって登場することもあります。これは大山巌(おおやまいわお)元帥のことで、日露戦争では満州軍総司令官を務めた人物です。「ハルピン」は現在の中国黒竜江省の省都・哈爾浜(ハルビン)のことで、当時の日露戦争の主要な戦場だった満州(現在の中国東北部)の中心都市の一つでした。

これらの固有名詞を保育士として理解しておくことで、万が一「先生、クロパトキンって何?」と子どもに聞かれたときに、「ロシアのお偉いさんの名前だよ」と一言で答えられます。

  • 🧑‍✈️ クロパトキン:ロシア陸軍大将。日露戦争でロシア側満州軍を指揮したが、敗れて解任された。
  • 🚢 東郷元帥(東郷平八郎):日本海軍の英雄。日本海海戦(1905年)でロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。
  • ⚔️ 大山大将(大山巌):薩摩藩出身の元帥。日露戦争の日本側満州軍総司令官を務めた。
  • 🗺️ ハルピン(哈爾浜):現在の中国東北部の都市。当時の満州の要衝で、日露戦争の進軍目標の一つ。

この歌には「六人残して皆殺し」という、現代の感覚では非常に強烈なフレーズも含まれています。当時の子どもたちは意味を深く考えずに歌っていたかもしれませんが、保育士がこの点を把握した上で使用判断をすることが重要です。

手鞠歌 – Wikipedia(「一列談判」の歌詞全文と複数バリエーションを掲載)

お手玉の歌「日露戦争」の地域差とバリエーションの豊富さ

この歌は全国共通の「正しい歌詞」が存在しないことが大きな特徴です。伝承独特の変化によって、各地でさまざまなバージョンが生まれています。

たとえば隠岐(島根県)では「一列談判破裂して…」と始まりますが、鳥取県の例では冒頭が「日列談判破裂して…」に変わっており、「日露戦争始まった」が「日露戦争流行けり」という表現になっているバージョンも記録されています。「大山大将」が登場するものとしないものでも差があります。

さらに驚くべきことに、東京・関東のバージョンでは「一〜十」の10番で終わらず、30番以上まで続く長大なバージョンも存在します。「十一・万歳ばばんざい」「十五・御殿の八重桜」「二十・二宮金次郎」「三十・侍 刀持ち」など、日露戦争の内容を超えた江戸・明治の日常的な場面まで歌い込まれていくのです。

つまりこの歌は、10番で完結する「一列談判」だけを指すのではなく、数え歌の骨格に乗せて地域の人々が自由に付け加えていった、生きた口頭文学だったと言えます。

保育士として子どもたちに伝える際、「この歌の歌詞は地域によって少し違う」という事実を知っておくと、子どもが「ばあちゃんと違う歌詞だった」と言ったときにも自信を持って対応できます。この情報を知っているだけで、保護者との会話も深まります。

  • 📍 隠岐(島根県)バージョン:「一列談判…死ぬまで尽くすは日本の兵…東郷大将・大山大将万々歳」
  • 📍 鳥取県バージョン:「日列談判…日露戦争流行けり…大山大将は登場せず」
  • 📍 東京バージョン(代表的):「一列談判…東郷元帥万々歳(10番で終わり)」
  • 📍 拡大版(30番以上):日露戦争の枠を超えて日常・歴史の場面まで続く長大版も存在

お手玉の歌一覧(楽天ブログ「お手玉遊びと私のつれづれ」)大正・昭和に歌われた多数の歌詞を掲載

お手玉遊び自体が持つ発達効果と保育のねらい

歌詞の内容とは切り離して考えたいのが、「お手玉遊びそのもの」が子どもの発達に与える豊かな効果です。これは使えそうです。

お手玉は奈良時代に中国から日本へ伝わり、当時は「石名取玉(いしなとりだま)」と呼ばれる小石や水晶を使ったものでした。法隆寺には奈良時代のお手玉が宝物として現存しており、その歴史は約1,300年にも及びます。江戸時代に入ると小石に代わり木の実や貝殻が使われるようになり、布製のお手玉が本格的に普及。明治以降には小豆を詰めた現在の形に近いものが広まりました。

発達面では、お手玉を使った遊びには「脳・神経系への好影響」が複数の研究で示されています。手指の細かい動きを繰り返すことで大脳皮質への刺激が増し、特に幼児期に著しく発達する脳・神経系への効果が期待できるとされています。また、向上する運動神経として「リズム能力」「定位能力」「分化能力」という3つのコーディネーション能力が挙げられており、これらは将来的な運動能力全般の基盤になります。

保育における具体的なねらいとしては、以下が代表的です。

  • 🧠 手指の巧緻性の向上(特に3〜5歳児)
  • 👁️ お手玉を目で追い続けることによる集中力の向上
  • 🎵 歌に合わせて動かすことによるリズム感の育成
  • 🤝 輪になって回す遊びでのコミュニケーション力・協調性の育成
  • 💪 繰り返しの練習を通じた忍耐力・達成感の体験

お手玉は2歳児でもキャッチ遊びから入れる間口の広さがあり、5歳児には「ジャグリング(複数玉の同時操作)」まで発展できます。ひとつのおもちゃで幅広い年齢に対応できるのは、保育士にとって大きなメリットです。発達に合わせて難易度を調整しやすい点が、現場でも重宝されている理由のひとつです。

保育士として「日露戦争の歌」を子どもに伝えるときの視点

「一列談判破裂して、日露戦争始まった」という歌を、保育の場でどう扱うかは判断が求められます。単に「昔のお手玉の歌だよ」と紹介するのか、歌詞の意味を少し説明するのかは、子どもの年齢と場の文脈によって変わります。

まず知っておきたいのは、この歌が「わらべうた」として子どもの口に乗り続けた背景です。わらべうたの研究者である名古屋短期大学の山下直樹教授は「わらべうたは地域に伝承された民族音楽のようなもの。時代を映す鏡であり、だからこそ廃れることなく語り継がれてきた」と語っています。日露戦争の歌もまた、明治の人々が抱いた感情・世相・興奮を子どもたちの遊びの中に映し込んだ文化的記録なのです。

ただし、「六人残して皆殺し」「クロパトキンの首を取り」といった歌詞は、現代の感覚では子どもに教えることに迷いを感じる表現でしょう。保育士として考えてほしい点は次の2つです。

まず、意味を知らないまま無条件に歌わせることのリスクです。子どもは歌の意味を理解しなくても耳に入ったリズムと言葉を覚えます。そのまま歌い続けることは「戦争は勝てばいい」「敵は皆殺しにするもの」という価値観を刷り込みかねない側面があります。

次に、この歌を「過去の遊び文化の記録」として正しく位置づける視点です。実際に昭和55年(1980年)に民話伝承者から採録された記録(出雲かんべの里)でも「このような歌が子どもの世界に影を落とし、わらべ歌の中に色濃く入り込んでいる。伝承わらべ歌は時代を映す鏡だ」とまとめられています。つまりこの歌は「悪いもの」ではなく、「その時代の文脈とセットで理解されるべきもの」です。

保育の場では、歌を紹介する際にひとこと「明治のころ、戦争があったときに子どもたちが歌ったんだよ」と添えるだけで、子どもの受け取り方は変わります。歴史的背景を一言で伝えるだけで十分です。

  • 🔍 3〜4歳児:歌詞の意味より「数を数える楽しさ」として遊びに取り入れる
  • 🔍 4〜5歳児:「昔の人が歌ったんだよ」という紹介で文化的背景に触れさせる
  • 🔍 5歳児以上:「どうしてこんな歌があるの?」という問いかけが生まれたら、歴史への入り口にする

この歌が生まれた明治37年(1904年)から今日まで、120年以上が経過しています。その間に日本の子どもたちが歌い継いできた事実そのものが、この歌の「重さ」でもあります。保育士が歌の背景を理解した上で子どもたちと向き合うことが、文化の正しい伝え方につながります。

「わらべうたが子どもの発達を左右する」 – 保育士・ほいくらし(名古屋短期大学・山下直樹教授のインタビュー。わらべうたの保育的効果を専門家が解説)