中村雨紅 夕焼け小焼け
夕焼け小焼けの詩は、実は日暮里小学校の教師時代に16kmを徒歩通勤した経験から生まれました
中村雨紅という人物の生涯
中村雨紅(本名:高井宮吉)は1897年に東京都八王子市の上恩方町で生まれた詩人です。1916年に東京の師範学校を卒業後、すぐに第二日暮里小学校の教師となり、1918年に第三日暮里小学校へ転勤しました。wikipedia+3
若き教師時代、雨紅は子どもたちの情操教育に役立てようと同僚とともに童謡の作詞や詩の制作活動を始めます。代表作「夕焼け小焼け」は1919年(大正8年)に作詞され、1923年(大正12年)に草川信によって曲がつけられました。
つまり、作詞です。
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雨紅は恩方村から八王子駅までの約16kmを歩いて通勤していましたが、その帰り道に見た夕焼け空に、幼い日の想い出や村の風景を重ね合わせてこの歌詞を描きました。通勤路で見た暮れ六つを知らせる寺の鐘の音、西の小仏や陣馬の夕焼けの山々へ帰る烏の群れなど、具体的な情景が詩の素材となっています。kawara-ban+1
1972年5月8日に75歳で亡くなるまで、多くの童謡を作詞し続けました。恩方町の小中学校など市内6校の校歌も作詞しており、地域に深く根ざした詩人として活躍したんですね。townnews+1
第三日暮里小学校には、地域の方々によって昭和59年に「夕焼け小焼けの塔」が建てられ、雨紅の功績を称えています。
夕焼け小焼けの歌詞に込められた意味
「夕焼け小焼け」の歌詞は、夕暮れから夜へと移り変わる田舎の美しい風景を2番まで描いています。1番では夕焼けに照らされた空の下、山のお寺の鐘が鳴り、子どもたちが手をつないで烏と一緒に家へ帰る情景です。worldfolksong+2
2番では、子どもたちが帰った後の夜の情景に変わります。丸い大きなお月さまが空に昇り、小鳥が夢を見る頃には空にきらきら金の星が輝く様子を描いています。夕暮れから夜への時間の流れを短い言葉で見事に表現しているんです。hoiku-is+1
「小焼け」という言葉については、複数の解釈があります。一つは語調を整えるために添えた言葉で「夕焼け」と同じ意味とする説です。もう一つは「夕焼けがだんだん薄れること」を意味するとする説があります。linderabell+3
後者の解釈では、「夕焼け小焼けで日が暮れて」という歌詞が、①夕焼けが②だんだんと薄れて③日が暮れる、とスムーズに場面展開している様を説明できます。太陽が沈んだ後、暫くすると太陽に照らされた空がもう一度ほんのり赤くなる現象を「小焼け」と呼ぶという説明もあります。note+1
歌詞に登場する「山のお寺」についても、複数のモデル候補があるとされていますが、雨紅自身は具体的な特定の場所を示さず、普遍的な日本人の心の原風景として描いたと述べています。
これが原則です。
中村雨紅が夕焼け小焼けを作詞した背景
雨紅が「夕焼け小焼け」を作詞した背景には、長距離通勤という特殊な経験がありました。恩方村から八王子駅まで片道16kmを徒歩で通う日々は、自然と向き合う時間でもありました。wikipedia+2
大正8年(1919年)の夏休み、雨紅は東京第三日暮里小学校の教師として勤務していましたが、恩方の生家に帰省するときに八王子から実家まで続く陣馬街道をてくてくと歩きました。その道中で暮れ六つを知らせる寺の鐘の音を聞き、西の山々へ帰る烏の群れを目にしていたのです。
大人になった雨紅は、そうした風景に哀歓を感じ、幼いころの郷愁も加わってこの詩を作りました。作詞の動機には、子どもたちの情操教育に役立てようという教師としての使命感もありました。同僚とともに童謡の作詞や詩の制作などの執筆活動を開始したのは、教育現場での実践的なニーズがあったからですね。townnews+1
雨紅が見た「夕焼け」「お寺と鐘の音」「烏」という3点セットは、夕焼け小焼けの必要条件だったと分析されています。これらの要素が組み合わさることで、極めて一般的で表象的なフレーズが生まれ、誰もが共感できる童謡となりました。
雨紅のペンネームも興味深いエピソードがあります。「雨紅」とは、雨で濡れた紅葉の紅色を意味し、さらに美しさを増すという意味が込められているのではないかと推測されています。
参考)https://ameblo.jp/shisekifun/entry-12832203070.html
保育現場での夕焼け小焼けの活用法
「夕焼け小焼け」は保育現場で秋の定番曲として広く歌われています。夕暮れ時の美しい風景を描いた歌詞は、子どもたちに季節感や自然への関心を育む情操教育に最適です。実際に保育士試験実技の課題(令和6年/2024年度)にも採用されました。
全国の市町村では、「夕焼けチャイム」にこの童謡のメロディーが使われています。外で遊んでいても、その音が鳴ると家に帰るという習慣を持つ子どもたちが多いんです。つまり、生活リズムを整える実用的な役割も果たしているということですね。
保育活動では、秋の壁面飾りと組み合わせる活用例があります。夕焼けの風景にとんぼやすすきを飾り付け、完成後に皆で「夕焼け小焼け」を歌うという活動です。工作と歌唱を組み合わせることで、子どもたちの創造性と音楽性を同時に育てられます。
ピアノ弾き歌いとしても活用されており、保育士向けのレッスン動画や楽譜が多数公開されています。歌詞は2番まであり、1番は夕暮れの情景、2番は夜の情景を描いているため、時間の経過を子どもたちに伝える教材としても優れています。
高齢者のリハビリや外国人向けの日本語学習にも活用されており、世代や国境を超えて親しまれている童謡です。
これは使えそうです。
中村雨紅が歩いた夕焼けの道
中村雨紅が毎日歩いた恩方村から八王子駅までの16kmの道は、陣馬街道と呼ばれていました。東京オリンピックまでは「案下道」と呼ばれていたこの道を、雨紅はてくてくと歩いて通勤していたのです。
この通勤路で雨紅が目にしていた風景は、西の小仏や陣馬の夕焼けの山々、そしてそこへ帰る烏の群れでした。暮れ六つを知らせる寺の鐘の音も、毎日のように聞こえていたとされています。
厳しいところですね。
雨紅は後年、神奈川県厚木市の七沢を訪れた際、「故郷の恩方と八王子の七沢が、環境と景色がとても似ているし、夕映えがきれいなので大好きだ」と語っています。長野や八王子には「夕焼け小焼け」の碑はあるが、第2の故郷にはないと洩らしたというエピソードも残っています。
厚木市の本禅寺のあたりも、雨紅が「夕焼けの里」として愛した場所の一つでした。樹立ちの茂みが奥深い名刹が多く、烏もたくさん住み着いていたため、夕焼け小焼けの3点セット(夕焼け、お寺と鐘の音、烏)が揃っていたのです。
こうした具体的な場所を持ちながらも、雨紅は「現実的、具体的な夕焼けの里は存在しない」と述べています。普遍的な日本人の心の原風景として描くことで、ひとびとの心に純化したイメージの「夕焼けの里」を刻むことに成功したんですね。
中村雨紅の生涯と作品について詳しく知りたい方は、Wikipedia「中村雨紅」の記事をご覧ください
夕焼けの里と雨紅の足跡について詳しく知りたい方は、「中村雨紅が愛した夕焼けの里」をご覧ください

G-4320■夕やけ小やけ 中村雨紅詩謡集(全356ページ)■世界書院■昭和46年7月15日発行

