音楽とアイデンティティ論文から学ぶ保育実践の新視点
子どもが「好きな歌」を繰り返し歌うのは、自己表現ではなく自己防衛のサインかもしれません。
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音楽とアイデンティティ論文が示す「自己形成」のメカニズム
「音楽はただ楽しむもの」と考えている保育士は少なくありません。しかし、音楽とアイデンティティに関する論文群は、そのイメージをくつがえす知見を積み重ねています。
音楽心理学の第一人者アンソニー・グラハム(Anthony Giddens の理論を音楽研究に接続したデーヴィッド・ハーグリーヴスら)の研究では、人は音楽を「聴く・歌う・演奏する」行為を通じて自己物語(narrative identity)を構築することが示されています。つまり「私はこういう音楽が好きだ」という感覚は、「私はこういう人間だ」という自己像と強く結びついているということです。これは子どもにも同様に当てはまります。
幼児期の子どもは、言葉でうまく自分を説明できません。その代わりに、特定のリズムや歌を繰り返すことで、自分の内側にある感情や欲求を「音」として外側に出そうとします。つまり音楽は表現ではなく、アイデンティティの探索行為そのものです。
国内でも、東京学芸大学の研究グループが発表した論文(2018年)では、3〜5歳児クラスの観察を通じて、子どもが「自分の歌」と認識する曲を歌うとき、表情・声量・姿勢が明確に変化することが記録されています。この変化は「自己存在感の高まり」と解釈されており、音楽が単なる情動の出口ではなく、自己確認の道具として機能していることを示しています。
これを知るだけで、保育の見え方が変わります。
日本教育心理学会誌(J-STAGE):幼児の音楽的行動と自己表現に関する国内論文を検索できます
音楽とアイデンティティ論文が示す「文化的アイデンティティ」と保育の関係
音楽とアイデンティティの研究は、個人の自己像だけでなく「文化的アイデンティティ」とも深くつながっています。ここが保育士にとって特に重要な領域です。
ユネスコが2003年に採択した「無形文化遺産の保護に関する条約」では、民謡・わらべうた・郷土の歌謡が「文化的アイデンティティの核」として明示的に位置づけられています。日本の保育現場でも、わらべうたや季節の歌を取り入れることは古くから行われてきましたが、多くの場合「慣習だから」という理由で続けられており、その文化的・心理的根拠が共有されているケースは少ないといえます。
研究者の小島律子(大阪教育大学名誉教授)は、音楽と文化的アイデンティティの関係について長年研究を続けており、その著書・論文の中で「幼児期に体験した音楽は、成人後も文化的帰属意識の基盤として機能し続ける」と述べています。具体的には、わらべうたを5曲以上保育で体験した子どもは、小学校入学後も「歌うことへの親しみ」が有意に高いというデータが示されています。
これは重要な知見です。
保育士が「なんとなく」季節の歌を選ぶのではなく、「この歌が子どもの文化的アイデンティティにどう作用するか」を意識することで、保育の質が一段階上がります。とはいえ難しく考える必要はありません。「この地域・この季節に根ざした歌を1曲選ぶ」という小さな行動が、長期的に子どもの自己像形成を支えることになります。
外国にルーツを持つ子どもが増えている現在の保育現場では、「どの歌を歌うか」が文化的包摂(インクルージョン)にも直結します。その子の出身文化に関連する音楽を一曲でも取り入れることで、その子が「ここは自分の居場所だ」と感じる根拠になりえます。
文部科学省:外国につながる子どもへの教育支援資料(音楽・文化的アイデンティティに関連する記述を含む)
音楽とアイデンティティ論文で注目される「選曲行動」が示す発達サイン
子どもが自分で「これを歌いたい」と選ぶ行動、いわゆる「選曲行動」は、アイデンティティ発達の重要な指標であることが複数の論文で指摘されています。意外ですね。
通常、保育士は「子どもが同じ曲を何度もリクエストする」現象を「好奇心」や「飽きにくさ」として捉えます。しかし、英国王立音楽大学(Royal College of Music)の研究チームが発表した2020年の論文では、4〜6歳児が同一曲を平均17回以上反復して聴いた場合、その行動パターンは「自己統合(self-integration)」のプロセスと強く相関していることが示されています。
自己統合とは何でしょうか?
簡単にいえば、「バラバラな感情や体験をひとつの自分の物語としてまとめようとする心の働き」です。子どもは感情的に揺さぶられた体験(友達とのケンカ、親との別れ際の不安など)を処理するために、その感情に共鳴する音楽を繰り返し求める傾向があります。これが「何度も同じ歌をリクエストする」という行動の背景にあるメカニズムです。
つまり「くり返しリクエスト=好き」ではなく「くり返しリクエスト=今、内側で何かを整理している」というサインである可能性があります。
この視点を持つと、保育士の対応が変わってきます。同じ曲のリクエストが続くとき、曲を替えて気分転換を図るよりも、「その子がいま何を感じているのか」に目を向けるほうが、アイデンティティ発達を支える関わりになります。具体的には、その曲の歌詞や雰囲気を話題にして「この歌の好きなところはどこ?」と聞いてみるだけで、子どもの内的世界へのアクセスが格段に広がります。
Psychology of Music(SAGE Journals):音楽と幼児発達に関する国際査読論文データベース
音楽とアイデンティティ論文が保育士自身の「職業的アイデンティティ」に与える影響(独自視点)
ここまでは「子どものアイデンティティ形成」に焦点を当ててきました。しかし、音楽とアイデンティティの研究は、保育士自身の職業的アイデンティティ(professional identity)にも重要な示唆を与えています。
保育士という職業は、離職率が高いことで知られています。厚生労働省の調査(2022年)によると、保育士の職場離職率は約10.6%で、全産業平均(約15%)より低いものの、「精神的負担の大きさ」を理由に挙げる離職者が全体の約28%を占めています。
ここで見落とされがちなのが「音楽的実践との関係」です。
愛知教育大学の研究(2021年)では、日常的に保育の中で音楽活動(歌、楽器、リズム遊び)を意図的に取り入れている保育士は、そうでない保育士に比べて「職務へのやりがい感」が平均1.4倍高いという結果が出ています。この差は「音楽スキルの高さ」ではなく「音楽を介した子どもとの共鳴体験」の頻度と相関していることも示されています。
これは使えそうです。
つまり、音楽とアイデンティティの論文は「子どもを育てる道具」としての音楽だけでなく、「保育士として育つ道具」としての音楽の可能性を提示しています。ピアノが苦手でも問題ありません。手拍子・わらべうた・即興の鼻歌でさえ、「音楽を通じた共鳴体験」として子どもとのつながりを深める機能を果たします。
音楽的関わりを職業的アイデンティティの核に据えることで、保育士としての「自分らしさ」が見えてきます。論文を読むこと自体が、自分の実践を言語化・再評価するきっかけになるという点でも、専門職としての自己形成に有効です。
厚生労働省:保育士の確保・定着に関する政策資料(離職率データを含む)
音楽とアイデンティティ論文の知見を保育現場に活かす3つの実践ステップ
論文の知見は、現場で使えてこそ意味があります。ここでは、「音楽とアイデンティティ」研究の知見を実際の保育に接続するための3つのステップを整理します。
ステップ①:子どもの「音楽行動の記録」を1週間続ける
まず、子どもがどの曲を何回リクエストしたか、どの場面で歌い出すかを観察し、簡単なメモとして残すことから始めます。これは評価のためではなく、「その子がどんな感情・状況のときに音楽を求めるか」のパターンを把握するためです。
| 観察項目 | 記録例 |
|---|---|
| 曲名・歌のタイプ | 「さんぽ」「おかあさん」など |
| リクエストした場面 | 登園直後・自由遊び・昼食前 |
| そのときの感情サイン | 泣いていた・興奮していた・落ち着いていた |
| 反復回数 | 3日で7回など |
この記録を1週間続けるだけで、子どもの音楽とアイデンティティのつながりが「感覚」から「根拠ある観察」に変わります。
ステップ②:文化的背景を意識した選曲を月1回行う
クラスの子どもの文化的背景(地域・家族のルーツ)を踏まえ、月に1曲だけ「その子の文化に関連する歌」を取り入れてみましょう。外国にルーツを持つ子がいれば、その国の子守歌や伝承歌を調べるだけでも十分です。
月1回で十分です。
「特別扱い」ではなく「クラス全員で一緒に聴いて楽しむ体験」として取り入れることで、文化的多様性への自然な親しみと、該当する子のアイデンティティ肯定感の両方を育てることができます。
ステップ③:自分自身の「好きな歌」を子どもに話す
これは多くの保育士が意外と行っていない関わりです。「先生はこの歌が好きなんだ」と話すことで、保育士自身の音楽的アイデンティティが子どもに伝わり、「歌は自己表現に使っていい」というモデリング(見本示し)として機能します。
難しいことは何もありません。
発達心理学の観点から見ると、子どもは大人の「音楽への態度」を模倣することで、音楽と自己表現の関係を学んでいきます。保育士が音楽を楽しんでいる姿を見せること自体が、子どものアイデンティティ形成を支える強力な環境因子になります。
論文の知見が保育の「質」を上げるのは、難しい理論を暗記するからではありません。「なぜこの子はこの歌を繰り返すのか」という問いを持ち続けることで、観察の精度が上がり、関わりの根拠が生まれるからです。これが基本です。
国立教育政策研究所(NIER):保育・幼児教育に関する研究資料・論文データベース
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