巽聖歌と新美南吉の深い絆|童謡詩人が遺した保育への贈り物

巽聖歌と新美南吉

多くの保育士は、ごんぎつねの作者・新美南吉だけを知っていて、その作品を教科書に載せた恩人・巽聖歌の存在を知りません。

この記事のポイント
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8歳差の兄弟のような関係

巽聖歌は南吉の兄弟子として文学を導き、同居生活まで共にした

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看病と遺志の継承

29歳で亡くなった南吉の未発表作品を聖歌が生涯かけて出版し続けた

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教科書掲載への尽力

本を買えない子どもにも読んでもらうため「ごんぎつね」を教科書に推薦

巽聖歌と新美南吉の出会い|8歳差の兄弟弟子

 

1931年9月、童謡・童話雑誌『チチノキ』に作品を投稿してきた新美南吉と、編集者だった巽聖歌が初めて出会いました。聖歌は1905年生まれ、南吉は1913年生まれで8歳の年齢差があります。wikipedia+2

二人は北原白秋に師事する同門で、聖歌は南吉の兄弟子という立場でした。まだ無名だった南吉の才能を聖歌は高く評価し、南吉は手紙で聖歌を「兄さん」と呼んでいたほど慕っていました。shunyodo.co+2

同年12月、受験のため上京した南吉が東京・下北沢にあった聖歌の下宿を訪ねたのが、対面の始まりです。聖歌は南吉に東京外国語学校の受験を勧め、無事入学を果たした南吉は上京することになります。city.hino+2

つまり聖歌が進路の恩人ということですね。

巽聖歌宅での同居生活|中野区上高田で5ヶ月間

聖歌は南吉を受け入れるため、中野区上高田に新居を借りました。1932年から聖歌の結婚を機に南吉が寮に入るまでの5ヶ月間、二人は一緒に暮らしています。library.city.tokyo-nakano+1

結婚後も南吉は聖歌宅の付近に住んで、頻繁に出入りし家族同然の付き合いを続けました。聖歌宅から西へ300メートルのところには、ケヤキの大木と竹垣に囲まれた大きな屋敷があり、聖歌はこの屋敷の落葉焚きの様子を見て童謡「たきび」を作ったといわれています。nankichi+1

歌詞に登場する「かきね」とは、聖歌の故郷・岩手県紫波町でよく見られる「家垣根(いぐね)」と呼ばれる屋敷林のこと。ふるさとの風景への思いが、中野区での実体験と重なって生まれた作品です。

ふるさとへの思いが込められているんですね。

新美南吉の闘病と看病|29歳で結核により死去

南吉は身体が弱く病気がちで、大学卒業後に就職したものの喉頭結核にかかり、病状が悪化して床に伏せました。聖歌夫妻は自宅に南吉を引き取って看病しています。city.hino+1

1943年1月に病状が悪化し、2月には勤務していた安城高等女学校を退職。2月12日、南吉は巽聖歌に未発表作品の原稿をすべて送り、「長くは生きられないので、亡くなった後のことはおまかせしたい」という内容の手紙と遺言状を書きました。wikipedia+2

病気を知らなかった聖歌は驚いて南吉の郷里・半田の岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面し原稿の整理をします。そして3月22日午前8時15分、南吉は29歳8ヶ月(満年齢)という若さで亡くなりました。aichi.mytabi+3

厳しい現実ですね。

ごんぎつねの教科書掲載|本を買えない子どものために

南吉の死後、聖歌は約束を果たすべく生涯をかけて南吉の童話集を刊行し続けました。散逸していた南吉の書簡・日記・原稿類などを集めて、『新美南吉童話集』全3巻(1960年)、『新美南吉全集』全8巻(1965年)を編纂しています。note+1

託された原稿だけでなく、形見として教え子や知人たちの手に渡ってしまった原稿や書簡なども、一人一人訪ねて返却してもらい収集しました。こうして収集した原稿も刊行し、南吉作品が全国的に広く読まれる基礎を築いたのです。

聖歌が「ごんぎつね」の教科書掲載を推薦したのは、本を買ってもらえない子どもにも南吉の作品を読んでもらうことができるのではないか、という想いがありました。実際に「ごんぎつね」が初めて教科書に掲載されたのは1956年(昭和31年)、大日本図書の『国語4年(上巻)』です。library.pref+2

「日本中の子どもたちに自分の童話を読んでもらいたい」と最期の手紙に書いた南吉の願いは、聖歌の手によって見事に果たされました。

これが原則です。

保育現場で活かせる巽聖歌と新美南吉の作品|季節の童謡と物語の力

巽聖歌の代表作「たきび」は、冬の保育活動で頻繁に歌われる童謡です。歌詞に登場する「北風ぴいぷう」というユニークな響きは北国の身を切るような冷たい風を表しており、子どもたちが季節の変化を体感する手助けになります。

新美南吉の「ごんぎつね」は、現在も小学校4年生の全教科書に採用されており、保育園・幼稚園の年長クラスでも読み聞かせに使われています。物語に登場する「天使の心」と「悪魔の心」の揺れ動きは、4歳から5歳の子どもたちが自我を確立していく時期に重なります。

聖歌は母校である日詰小学校をはじめ、紫波町内や日野市内で多くの校歌の作詩を手がけました。地域の美しい自然を詩に込め、子どもたちが地元に愛着を持つきっかけを作っています。

保育現場で活かせる作品が豊富です。

巽聖歌の生涯|岩手県紫波町から東京・日野市へ

巽聖歌は1905年2月12日、岩手県紫波郡日詰町(現紫波町)で生まれました。童謡詩人として駆け出すきっかけとなったのは、ふるさとで田んぼの水の取り入れ口にいるオタマジャクシを見て作った「水口(みなくち)」という童謡です。weblio+1

この作品は日本を代表する詩人・北原白秋に絶賛され、聖歌は童謡詩人として名前を知られるようになりました。1930年には与田準一らと童謡・童話雑誌『乳樹』(後『チチノキ』に改題)を創刊しています。wikipedia+2

聖歌は後半生の25年間を東京・日野市旭ヶ丘で過ごし、1973年4月24日に68歳で亡くなりました。当時の旭ヶ丘は自然豊かで、聖歌は自宅の庭で野菜を育て山羊や羊を飼って生活していたそうです。weblio+1

「たきび」はJR豊田駅の発車メロディにも採用され、毎年12月にはたきび祭が行われるなど、聖歌の作品は今もなお日野市民に深く愛されています。聖歌の生誕の地である紫波町と、晩年を過ごした日野市は、その縁から2016年に姉妹都市となりました。

結論は文化的遺産が地域をつなぐということです。

新美南吉の生涯と作品|4歳で母を亡くした童話作家

新美南吉は1913年に愛知県知多郡半田町(現半田市)で生まれました。4歳のときに実母を亡くし、8歳のときには母の実家に養子に出されるなど、複雑な家庭環境で育ちます。wikipedia+1

実母は病弱で、南吉がもの心つくころには既に伏せていたため、抱かれたり、おんぶされたり、添い寝をされたりする経験がありませんでした。こうした経験が、南吉作品に登場する母子の情愛や、失われた温もりへの憧れの源泉になっています。

南吉が「赤い鳥」に投稿し、最初に掲載されたのは1931年5月号の童謡「窓」です。「赤い鳥」に掲載された南吉の童話は4編ですが、童謡は計23編のっています。

大正15年4月に半田中学校に入学した南吉にとって、小さな畳屋の子どもが中学校に進学することは異例のことでした。経済的に恵まれない環境と健康面の不安を抱えながらも、執筆を続けた南吉の作品は、現在も多くの人々に読まれ続けています。aichi.mytabi+1

生涯執筆を続けた姿勢が印象的です。

二人の絆が保育に残したもの|子どもの心に届く作品

巽聖歌と新美南吉の絆は、文学的な師弟関係を超えて、家族同然の深いものでした。聖歌が南吉の才能を信じ、生前から死後に至るまで作品を世に出し続けたことで、「ごんぎつね」「手ぶくろを買いに」などの名作が今日まで読み継がれています。

保育現場で南吉の作品を読み聞かせるとき、あるいは「たきび」を子どもたちと歌うとき、その背景にある二人の物語を知っていると、作品への理解が一層深まります。子どもたちに伝えたいメッセージ——思いやり、償い、家族への愛——は、聖歌と南吉が実際に生きた絆そのものです。

保育士として絵本や童謡を選ぶ際、作者の人生や作品が生まれた背景を知ることは、子どもたちへの語りかけに深みを与えます。二人の童話作家が残した作品は、これからも保育現場で子どもたちの心に届き続けるでしょう。

新美南吉記念館

半田市にある新美南吉記念館では、南吉の生涯や作品に関する展示が充実しており、保育教材のヒントが得られます。

日野市公式サイト

巽聖歌が晩年を過ごした日野市では、たきび祭などのイベントで聖歌の功績が顕彰されています。


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